コラム

不定期で仏教のこと・浄土真宗のことなどを掲載させていただきます。

お時間があればお読みください。


お念仏に生かされる

 

釋 法眼

 

「近所付き合いが希薄」と言われ始めて久しいですが、最近は特に他者への思いやりの気持ちがなくなりつつあるなと感じます。

 

ワイドショーなどで取り上げられた東京の南青山に児童相談所を巡る問題。

青山というセレブ街に児童相談所をつくることに対して、近隣住民が「土地の価値が下がる」とか「児童相談所に入っていた子が、青山で育った子に比べて見劣りしかわいそうなことになる」と反対理由を述べていました。

 

また、つい先日は神戸で「看取り施設」(終末医療や身寄りのない方をお見送りするまでお世話をする施設)の建設について揉めているというニュースもありました。近隣住民の方の発言の中に、「私も生い先短いのに、死を見せつけられるのは嫌だ。」とか、「救急車や霊柩車をみたくない。」という意見がありました。

 

これらの話を聞くにつけ、お釈迦様がお説きになられた「生老病死」について考えさせられました。

長寿化しつつある中で、「病」「死」というものを遠ざけ、見つめようとしない、そんな人が多くなってきたのかなと思います。

 

ある先生が「人はなんのために生きるのか。死ぬために生きているのだ。」と仰っしゃっていましたが、まさしく「ひとり生まれ、ひとり死にゆく」のが「人間」であります。

 

仏教によって病気が完治するとか、軽くなるなどということはありません。お医者さんを頼ってください。誰にも老いを止めることもできませんし、不死を得ることもできません。

 

ただ、「どのように生き、どのように死んでいくのか」ということについてはお釈迦様が教えて下さっています。仏教に出遇うということは「私」に出遇うということです。「建設に反対する方々のような気持ちが私にもないか。」と思うと、私こそが恐ろしい人間なんだなと感じます。

 

宗祖親鸞聖人は『正像末和讃』の中で、

 「蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ
   如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん」

と詠われています。まさしく私の中に蛇やサソリのように恐ろしく、ずる賢い「私」がいるということをお示しくださっています。そのような私たちを救わんと願われたのが阿弥陀如来という仏さまになります。阿弥陀さまは「蛇蝎奸詐のこころ」の私を憐れんでくださり、常に呼びかけてくださっています。その呼び声が「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。

 

また、同じく『正像末和讃』には

 「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
   回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」

とも詠われています。

 

なぜ、阿弥陀さまが誓い・願いをたててくださったのか思いを巡らせば、「生老病死」に苦悩する私たちを放っておけなかったんだなぁ。お念仏とは阿弥陀さまの呼び声なんだなぁ。といただくのであります。そして、有縁・無縁の方々と共にお念仏を一緒に慶ばせていただく。

 

「一人じゃないんだよ」と教えてくださる浄土真宗の有難さだと思います。

 

今回、施設建設に反対されている方をみていて、私の口からは自然とお念仏が出てまいりました。

お念仏に生かされていることを忘れず、日日を過ごさせていただきたいと思います。

 

合掌


参道と国道沿いに教専寺の看板を設置しました。

大厳和上を偲び来寺される方にもわかりやすい看板にしました。